インタラクティブ・ランドスケープ
文/森岡侑士
雲の湖 ワシントンD.C. 1980
Photo : Hamerman
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 「霧の彫刻」という表現には、なにかユーモラスな矛盾と逆説が孕まれているようだ。中谷芙二子はそれについて多くを語らない。確かに、堅い物質性を拭い去ってしまった霧の変幻に、お仕着せの彫刻という衣装は似つかわしくはない。
 霧は大気の呼吸を視覚化しながら、やがては大気に還る。そのダイナミズムのプロセスに融解してゆくものたち、そして時としてコンセプトたちさえもが、霧に誘われたかのように、静かなインタラクションの響きに包まれていく。あらかじめ綿密に読み取られた微気象としての大気の振舞いも、計算され尽くされた地表のしつらいも、霧の息吹に自らの呼吸を整い始める。「霧の彫刻」は、こうしてすぐれて環境的である。それはいわば物象性の界面に漂う、状況としての、また「こと」としての彫刻なのであろうか。
 1960年代後半のアメリカでは、ひと言にはカウンターカルチャーといわれる大きな渦が逆巻いていた。油絵のキャンパスでのコンポジションという既成観念に愛想づかしをして、ものの腐敗過程とその生態的意味を問いつつあった中谷の関心は、やがては「雲の生態」に赴いていたという。デコンポジションの世界への開眼である。ニューヨークを本拠とし、ベル研究所のビリー・クルーバーや画家のロバート・ラウシェンバーグたちが主宰する「芸術と技術の実験グループ」(E.A.T.)に中谷が出会ったのは、その頃のことである。
 1970年、E.A.T.グループによる大阪万国博覧会のペプシ館のプロジェクトで、グループ共同の支援と地球化学者の助力を受けて、中谷の創意は人工霧発生装置を生み出し、霧でパビリオンを覆い尽くす環境芸術として結実した。
 この装置の考案のプロセスに、アーティストとエンジニアのインタラクションというE.A.T.の考えの典型を見ることができよう。既存の人工霧発生技術は、アーティストの介在によって根本的に革新され、生態系に馴染む産業装置としてその後広く社会に伝播するという結果を伴ったのである。中谷におけるアートと技術の関係が、消費社会を前提にして否応なくまた絶え間なく変化させられて朽ち果ててゆく技術の、応用としてのアートではないことに注目したい。ペプシ館以降現在に至るまで、中谷の作品に用いられきた人工霧発生装置が、技術的にはほとんどその原型のままであるのは、むしろ驚嘆すべきことなのである。
 ただ、これは装置としての技術的完成度の高さを物語るばかりではない。いまひとつ見逃せない点は、人工霧を「自然と応答し響き合う媒介項」とするそのアイディアである。「人工」と「自然」といういわば歴史的な対立項としてあったものたちが、この人工霧で融合された。中谷の父・宇吉郎による「人工雪」の創造を経ること三十数年、自然の美の錬金術が再び達成されたのである。この媒介装置を手にして、不可視の大気環境の生態を視覚化し制御することが可能となり、中谷は自らのアートの領域を一挙に広げてしまった。
 ペプシ館のプロジェクト以降、多彩に繰り広げられた中谷のプロジェクトのすべてが、インタラクティブな関係性としての環境を創造してきている。スウェーデンの小さな島、デビッド・チュードアの音、子供たちや老人、犬や小鳥たち、掘り込まれたクレーター、川、太鼓、ビル・ビオラのライブ演奏、光と照明、池、紅葉、トリシャ・ブラウンの舞う肉体、「四角」というコンセプト、生態系としての庭、ダンプカー、吊り橋、海、夜桜、構造体−そのひとつひとつが、霧と大気に融解しながら、相対化された新しい関係性に息づく。主体も客体も、主役も脇役もなく。
 いわば、「霧の彫刻」の面白さの根源は、霧の環境に包み込まれるひとも物質も事象も、それが依拠する基準座標系(FRAME OF REFERENCE)を取り払われてしまい、新たな関係性のランドスケープに置かれることにあるようだ。ただ、このインタラクティブな彫刻は、見えがかりとしてのランドスケープにかかわるだけではないだろう。それはおそらく「心の内なるランドスケープ」にまでも染み入り、遥かな日々の記憶と面影、無意識に眠り込む夢を甦らせ、未だ形にならない形象をイメージさせる力を秘めているに違いない。
 アースワークやランドアート、パフォーマンス、ひいては環境芸術と言ってみても、どこかに物足りなさが残る。すぐれて現代的なこの彫刻の性格を決めつけるのは、霧の振舞いにあらゆるものが包み込まれてゆくのに似て難しい。やはり「状況としての彫刻」と言うしかないのではなかろうか。現代技術と人間実存の状況と危機に深い思索を巡らせたマルティン・ハイデッカーの思いは、いつもの故郷の「野の道」に還っていった。そこには、時として静かに深く霧が立ち込めていたことが思い起こされるのである。